四面楚歌―項羽と虞姫―



垓下の野戦城、四方から湧き上がる楚(故郷)の歌声。

項羽はその閨(ねや)にまで届く楚独特の音律を、虞姫の膝枕で聞いていた。

始皇帝亡き後、天下は群雄割拠を経て楚(項羽)漢(劉邦)の争いとなった。

戦の戦績は項羽が圧倒的な勝利の数を収めていたのだが、唯一の一勝を時の利で挙げた劉邦に形勢は大きく傾いていた。






「范増がおれば、それ見たことかと渋い面をされたであろうな・・・」

范増は項羽が最も信頼を寄せた参謀の一人だったのだが、高齢ゆえに頑固だった。

項羽もまた、事細かな諫言は疎ましい。

特に飛ぶ鳥を落とす勢いの時は、賛辞以外ほとんど耳に入らなかった。

范増は高齢を理由にその職を解かれると、憂いを残したまま没した。


それから程なくして、項羽は決着のつかない劉邦と和睦を結ぶに到った。

一時的な講和に過ぎなかったが、共に兵力を立て直し来たる時に備える。項羽は一旦故郷へ帰ることにした。

ところが劉邦の来たる時は、今まさにこの時だった。武装を解いて故郷へ向かう項羽の軍を追撃したのだった。

この時劉邦五十六歳、項羽三十一歳。

劉邦の歳の功というよりも、参謀の差が勝敗を決したといえよう。

劉邦の参謀、張良。

―范増亡き後の項羽は、戦好きの小僧に過ぎません。
今を逃がせば、あれほどの権力者です、范増に成り代わる人物がいつ現れるやも知れませぬ―

―しかしなぁ・・・卑怯じゃないかの・・・。一応和議を結んでおるわけだし・・・―

無頼漢あがりの劉邦にはおよそ卑怯などあってないが如く、言い逃れにすぎない。たんに項羽が怖いだけなのだ。

―卑怯などと、あなたにはまた何と似つかわしくないお言葉を。
范増がいる時の項羽は丈夫(ますらお)でした。勝てた試しなどなかったではありませんか―

劉邦はお前も小僧のくせにと思いながらも、それもそうだと納得せざるをえなかった。

忠誠の臣は遠慮がなく、主君は何よりも自分にない部分を自覚している。

―わかった―

あっさり劉邦は張良の進言を受け入れた。ここが項羽とは、大きく違うところだった。






「そうだ・・・叔父貴にも熟考が足らぬと言われる・・・」

項羽はその面影を思い出すように、呟いた。

気がつけば自分を叱ってくれる人は誰もいなくなっていた。


「そうね、いつも講義のお勉強はさぼってばかりいたから、叔父様にも范増様にもしっかり叱っていただくと良いわね」

「・・・虞」


項羽は虞姫の膝から半身を起こし、まじまじと彼女を見た。

青みを帯びた瞳が、長い睫毛に隠れた。

普段は寡黙で出すぎた言葉など言ったことがないし、ましてや叱るような口調など有り得ない。

まるで叱ってほしい自分の心を見透かされているようだった。

虞姫はさらに項羽の額に手を伸ばして、額にかかった髪を撫でるように掬い上げながら名を呼んだ。

「籍(せき)ちゃん」

項羽は弾かれるように虞姫を抱いた。

虞姫はそれまでこらえていた涙を、項羽の厚い胸に惜しみなく流した。

項羽も高ぶる気持ちを抑えきれない。

その思いは後に詩となり、後世に伝えられることとなった。


我が力 山を抜き=E・・虞よ 若を奈何せん


項羽の太く張りのある声は、上下強弱の抑揚を伴い四方から聴こえる楚歌を掻き消した。






項羽は名を籍、字を羽という。虞姫は小さい頃の呼び名で呼んだのだった。

幼馴染みだった虞姫は、項羽が勉強嫌だったことも覚えていた。

どちらも貴族の家柄で、何不自由ない幼年時代を過ごした。

しかし十歳で父が亡くなった項羽は、虞姫との別れを余儀なくされる。

叔父の項梁に引き取られた。

以降項羽は戦に明け暮れる日々を過ごした。

妻を娶る歳になっても正妻は持たず、子さえ作らなかった。

それが虞姫への思慕だったのだと、後に項羽は気付く。

とある戦乱の地で藁を被って蹲っていた女を、行軍中の項羽は騅(すい=愛馬)の馬上から見止めた。

破れた着物の袖口から見えた小さな刺青、赤いひなげしの花。

運命は思わぬところで二人を巡り合わせた。

見間違うものか!引き返すべく、猛烈な勢いで騅を駆る。

女は慄く暇すらないうちに、馬上高く項羽の腕に抱きかかえられていた。








「項王、騅をひいて参りました」

帳の外から、若い士卒の声がした。

項羽は立ち上がった。

身の丈当時では桁外れの一メートル八十センチ。

迷いのない眼は、つい今しがたまで叱ってほしいと弱音を吐いていた人物とはとても思えなかった。


「項王、叔父様と范増様には何と申し上げておきましょう」

虞姫は項羽の腰から短剣を引き抜くと、抱くように胸に当てた。

「時の利我にあらず、天がわしを滅ぼすのじゃ。叔父貴も范増も、このわしに何をか言わんや!土産話を存分に聞かせようぞ!」

項羽は微笑む虞姫を見届けると、愛馬に跨り四面楚歌の中を雄叫びに身を打ち奮わせながら疾駆した。


「うおおっ!騅よ!行けい!!」

蹄の音はあっという間に遠ざかり、城門の篝火だけが漆黒の闇にゆらゆらと燃えていた。







【後書き】

特に話の設定としての創作部分は、以下の三点です。

・項羽と虞姫が幼馴染み

・虞姫の腕の刺青

・項羽と虞姫の再会場面

その他については、ほぼ史実(主な歴史書に記載されている事)に沿っているかと思います。



歴史物ですが、内容は恋愛物です。

項羽と虞姫、二人のピュアな愛を感じていただければ嬉しいです。









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